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岐阜市のええとこ・ええこと! Vol.7

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岐阜県岐阜市

~岐阜の歴史をたどる明智光秀公を取り巻く岐阜市ゆかりの人物・名所編~
岐阜市には、誇るべき“ええとこ・ええこと”がたくさんあります。皆さんに岐阜市に住んで良かったと再認識していただけるような市の魅力をシリーズでお届けしています。 2020年のNHK大河ドラマで、明智光秀公を主人公とする「麒麟がくる」が放映されることが決まりました。光秀公は、斎藤道三公や織田信長公との関わりが深く、道三公や信長公が拠点としていた岐阜城を中心に、岐阜市が注目される絶好の機会となることが予想されます。今回は、光秀公に関わりのある岐阜市ゆかりの人物や、その人物にまつわる名所をご紹介します。

■鷺山城跡(鷺山) 道三
標高68mの鷺山の山頂にあった鷺山城。道三が土岐頼芸を追放し、義龍に家督を譲った後、隠居所としました。城跡が残る鷺山の麓にある北野神社では、城の礎石といわれる大きな石を見ることができます。山頂からは、金華山にたたずむ岐阜城の姿をしっかりと見ることができます。
■常在寺(梶川町) 道三 義龍
日蓮宗で妙覚寺の末寺。土岐家の重臣斎藤妙椿(みょうちん)が宝徳2(1450)年に建立しました。道三以後、斎藤家三代の菩提寺であり、国指定重要文化財「絹本著色斎藤道三像」「絹本著色斎藤義龍像」が所蔵されています。
■濃姫遺髪塚(不動町) 濃姫
本能寺の変で討ち死にした信長の家臣の一人が濃姫の遺髪を持ってこの地に埋葬したと伝えられています。
■岐阜城〈稲葉山城〉 道三 義龍 信長
鎌倉幕府の執事であった二階堂行政が築いたと伝えられています。戦国時代には、道三や信長の居城として知られています。昭和18(1943)年に戦争で焼失後、昭和31(1956)年に現在の城が再建されました。
■崇福寺(長良福光) 信長
臨済宗妙心寺派の寺院で、開山は文明元(1469)年といわれています。信長の祈願所としても知られ、本能寺の変で光秀に討たれたとき、信長の妻女・お鍋の方が遺品を送り、寺の背後に埋めて位牌を安置させました。これが現在の信長の父子廟となっています。また、本堂の「血天井」は関ヶ原の前哨戦での信長の孫・秀信の岐阜城が落城した際の床板で、現在も血痕が付着しています。
■道三塚(長良福光) 道三
弘治2(1556)年4月、義龍との「長良川の戦い」で討ち死にした後、道三の遺体を葬ったのが道三塚です。天保年間、斎藤家の菩提寺であった常在寺の日椿上人は、塚が荒れ長良川の洪水でたびたび流失したので、現在の地(長良福光)に移して供養碑を建てたといわれています。
■立政寺(西荘) 光秀 信長
文和2(1353)年に智通上人により創建された浄土宗の寺。光秀らの仲介により、信長が戦国最後の将軍となった足利義昭を迎えたといわれています
■円徳寺(神田町) 信長
永禄7(1564)年に信長から寄進されたといわれる鐘や「楽市楽座」の制札など貴重な文化財が多く残されています。織田塚から改葬したと伝わる史跡「伝織田塚改葬地」があります。
■織田塚(霞町) 信長
天文13(1544)年、信長の父・信秀が道三と戦い、織田軍が大敗したときの戦死者を葬ったと伝えられています。

●明智光秀(1528※~1582) ※諸説あり
・出生時期・場所など半生は謎です。美濃国(岐阜県南部)出身といわれています。
・一説では、道三の正室・小見の方の兄である明智光綱の子で、道三は伯父にあたるとされ、若い頃は道三に仕えていたともいわれています。
・足利義昭に仕えていたころ、義昭を立政寺に迎え、信長との仲を仲介したといわれています。その後、信長に才能を認められ、信長の重臣として活躍しました。
・天正10(1582)年6月、本能寺の変で信長を死に追いやった後、豊臣秀吉との戦いに敗れ、命を落としました。

●斎藤道三(1494~1556)
・京都の妙覚寺の僧侶であった長井新左衛門尉の子。
・家督を継いだ後、仕えていた長井家を乗っ取り守護代の斎藤氏の名跡を継ぎます。
・稲葉山城(現在の岐阜城)を拠点とし、麓に城下町を整備し、美濃国の内乱に乗じて着々と下剋上を進めました。
・美濃に攻め込んできた尾張の織田信秀を撃退。娘・濃姫を信秀の子・信長に嫁がせました。
・1550年ごろに、土岐頼芸を追放し、美濃国の実質的な支配者となりました。
・家督を息子の義龍に譲りますが、次第に不仲になり、弘治2(1556)年に激突。「長良川の戦い」で敗死しました。

●織田信長(1534~1582)
・尾張守護代の家老・織田信秀の嫡男として生まれました。
・道三の娘・濃姫と結婚した後、父・信秀が病死したことにより、家督を継ぎます。
・永禄10(1567)年、稲葉山城(現在の岐阜城)を攻め落とし岐阜に移り住みました。
・地名を「井口(いのくち)」から「岐阜」に改めたほか、天下統一を目指し、周辺諸国と戦い続ける一方で、城下町の整備や楽市・楽座などを取り入れ、岐阜のまちの発展に尽力しました。
・本能寺の変で光秀によって命を落としました。

●濃姫(1535~不明)
・道三の娘。光秀とは、いとこであるとの説もあります。
・織田・斎藤両氏が同盟を結び、信長の正室となりました。
・濃姫に関する記録は少なく、その生涯は謎が多いですが、京都の公家、山科言継が永禄12(1569)年に岐阜を訪れた際の日記の中に「信長本妻」という記述が出てくることから、この段階で岐阜に濃姫がいたことがうかがえます。

●斎藤義龍(1527~1561)
・道三の子。
・天文23(1554)年ごろ、道三から家督を譲り受けますが、やがて不和になり、弘治2(1556)年に「長良川の戦い」で父を討ちます。宿老制の整備や貫高制の採用など領国支配の基礎を築きますが、永禄4(1561)年に病死しました。

問合せ:広報広聴課
【電話】214-2387

       

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